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大和の国・日本の歴史において

 

 

闇夜に輝ける 月のような美しさと、

 

男に勝る強さを持ち、

 

日本武尊様の妃であり、

 

尾張の国を治められた姫巫女「宮簀媛」。

日本の宝・三種の神器として伝わる

 

草薙の剣を、

 

日本武尊様より授かり、守り抜かれた

 

 

熱田神宮の御祭神であられます。

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(画像:『尾張國熱田太神宮縁記』より抜粋)

​宮簀媛

​みやずひめ

さかのぼること、1900年以上も古の時代、

時の 景行天皇には、双子の御子息がおられました。

そのうちの、弟君こそ、日本武尊様です。

景行天皇は、東の国の蝦夷を討伐し、

平定できる者を探しておりました。

家臣がみな、適した人材をなかなか推挙しない中、

日本武尊様は、 ”兄が適しているのでは” 

と提案しましたが、

それを耳にされた兄君は気を失うほどに驚き、

逃げてしまいました。

日本武尊様は、「早く蝦夷を平定しなければ

ならない。」と、自ら手を挙げました。

身体は偉大であられ、志は雄々しく、

向かう敵なし・攻めれば必ず勝たれる

日本武尊様に、

景行天皇は、「形は我が子であるけれども、

本当は神人(かみ)だと思う」

「願わくは深く遠く思慮をめぐらし、

悪人どもを探し求め、そむく者を見つけて、

武威を示し、従うものには徳をもってなつけ、

言葉によって荒ぶる神をことむけ、

武力をふるって悪神をはらえ」

と仰せになりました。

大命を授けられた日本武尊様は、

蝦夷平定に出発されました。

この時、日本武尊様に伴った者が

吉備の武彦(きびのたけひこ)様、

料理人の七挙脛(ななつかはぎ)様、

そして、

宮簀媛様の兄上君、

建稲種の公(たけいなだねのきみ)です。

蝦夷の平定前に、日本武尊様は、

斎王※に寄られました。

※斎王:天皇に代わって伊勢神宮に仕える巫女   

斎王の 倭姫命(やまとひめのみこと)様は

日本武尊の志にめでられ、

「決して身から離すな」と

神剣を授けるとともに、

「火急の難があれば、この袋の口を解きなさい」

と、一つの袋を授けられました。

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(画像:「日本武尊像」珊瑚ノ宮 八重垣)

このとき授けられた神剣こそ、

三種の神器の一つ 「草薙の剣」です。

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(画像:「日本武尊と草薙剣像」珊瑚ノ宮 八重垣)

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(画像:「倭姫命像」珊瑚ノ宮 八重垣)

蝦夷討伐のため、景行天皇より大命を授かった

日本武尊(やまとたけるのみこと)様は、

斎王の倭姫命(やまとひめのみこと)様より

「神剣・草薙の剣」と袋を一つ授かり、

旅を進めてゆきます。

 

 

尾張の国愛智郡(くにあゆちのこおり)に着くと、

その郡にある「氷上の里(ひかみのさと)」が

家臣の建稲種の公(たけいなだねのきみ)の故郷であり、

お休みになられるようと勧められ、

日本武尊様は、建稲種の公の真心をめでて、

休まれることにしました。

そして、しばらく休まれておられた時、

日本武尊様は、ほんの一目、

麗しい、美しい娘の姿を目にしました。

その娘こそ、建稲種の公の妹君、

宮簀姫巫女様です。

宮簀姫巫女様の美しさは、

夜の闇夜に、輝くように美しく、

”美夜受姫”と書かれていることもあり、

いかに美しいお方であられたかが

どの文献からも伝えられています。

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(画像:「宮簀媛」珊瑚ノ宮 八重垣)

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日本武尊様は、すぐに、

宮簀姫巫女様と契りを結ばれました。

それから、久しくお留りになられ、

別れを惜しまれたそうです。

しかしながら、日本武尊様は、建稲種の公らと

蝦夷討伐に再出発いたします。

途中、進む道を2つに分け、東の国で

合流することにし、日本武尊様は 海道へ、

建稲種の公は 山道へと別れるのですが、

日本武尊様は、駿河にて賊の首に欺かれ、

辺り一面、炎で囲まれてしまわれます。

 

なすすべもなく、絶体絶命の危機に迫られた

その時、倭姫命様より授かっていた神剣が

鞘(さや)より自然に抜け出て、

燃え上がる四方面の草を薙ぎ払ったのです。

そして、もう一つ授けられていた袋を開くと、

火打ちが入っており、賊の者らに向火を

放って焼き滅ぼし、免れたのでした。

 

※神剣・「草薙の剣」という名は、元々、

「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」という名。

このときに「草薙」という名がつきました。

※この地を「焼津」と呼ぶようになりました。

そして、いよいよ建稲種の公と合流し、

蝦夷の地へと辿り着きます。

叛こうとした蝦夷の長らは、

遠くともみえる日本武尊様のあまりの威勢に

「人に勝っておられ、勢いは猛く神のようだ。

御名を賜りとうございます」と自ら降伏し、

恐れかしこみ、日本武尊様の徳に従いました。

宮簀姫巫女様のおられる尾張へ向かう帰路、

日本武尊様は山道を、建稲種の公は

海道を行かれるのですが、

この時、建稲種の公は、海にのまれ

命を落とされてしまいます。

日本武尊様は「それはまことか、まことなのか」

と、食事も喉を通らない程に嘆き悲しみながら

宮簀姫巫女様の元へと帰り着いたのでした。

それより先、久しく宮簀姫巫女様の元に

留まれた日本武尊様は、

 

「都に帰ってから、必ずあなたを迎えよう」

と約束を交わされ、「この剣を宝物として

持ち、床の守りとせよ」と、草薙の剣を

御守りとして宮簀姫巫女様へ預けられました。

(画像:「神剣守護・宮簀媛像」珊瑚ノ宮 八重垣)

日本武尊様は、伊吹山にて体中に病気を

受け、危篤となってしまわれます。

言い伝えでは、日本武尊様の御棺を

群臣が開くと、身体はなく、白鳥に

化して飛び出し、故郷・大和の国へと

向かわれたそうです。

日本武尊様が召された後も、

宮簀姫巫女様は決して約束を違えず、

神剣を守り繋いでおられました。

実は、神剣・草薙の剣は、

素戔嗚尊(スサノオノミコト)の剣であり、

天照大神様に献上されたものでした。

※管理していた斎王・倭姫命が    

日本武尊様にお授けになられたのでした。

 

草薙の剣の光は、太陽に次いで霊験著しいといわれ

人々が祈れば、直ぐに効験をあらわしたそうです。

 

宮簀姫巫女様は、老いたご自身を案じられ、

「亡くなる前に社を建てて神剣を遷し、祀りたい」

と、人々皆と「熱田の社」を建てられたのでした。

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(画像:熱田神宮HPより抜粋)

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※本掲載内容は、『尾張國熱田太神宮縁記』や熱田神宮様ホームページを参照し、掲載させて頂いております。また、上記リンクは、熱田神宮様に許可を得て掲載しております。

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